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会 長 挨 拶



日本サイドカー連盟会長

神宮司圀詔


●新会長就任に際し

小見初代会長との出会いと想い出

(中学生の頃、福岡県警の小父が陸王1200サイドカーで我が家に来た時、この世にこんなに素晴らしい単車があるのかと驚嘆、父との話が終るまでの小一時間、目の玉をくりむいて離れなかった私。小父が帰る時、キックー発エンジンを始動、往還を土煙を巻き上げながら走り去るサイドカーの後姿が、神宮司少年の網膜に強烈に焼き付いてしまった)
豊田市に来た頃、何かの情報で、日本サイドカークラブ(太陸モータースのクラブが同名のため変更:小見氏談)の小見欽哉氏の事を知り東京に手紙を出す。即ぐに返事を頂き、それから文通(その頃は電話が完全に普及していなかった)が始まり、サイドカーのノウハウを深めていくことになる。初めて小見氏に会ったのは、第1回東京モーターサイクルショーS46(1971)年7月の時だった。当時32歳の小見氏は温厚で人懐っこい性格で、兄のような感情を抱いたことを覚えている。 S47(1972)年の利根川キャンプWISで参加、翌48年の利根川は、メグロZ7サイドカー、それからというものは年何回もJSCの仲間達と会って親睦を深めていく。
日本サイドカー連盟という看板を名乗る以上(当初、関東東北地区の25〜30名程度の会員)全国組織にしようということになり、会長と相談しながら、私は日本全国を走り回ることになる。東海支部を皮切りS49(1974)年8月、BMW R69S サイドカーで北海道旭川の金沢勝雄氏に会い、北海道支部を結成、福岡県行橋市の竹田文夫氏に福岡支部、鹿児島市の浜田氏に鹿児島支部をお願いする。 その後、香川支部(川崎智義氏)、高知支部(岡林祥三氏)、大阪支部(前田明義氏)、京都支部(大月健一氏)、岡山支部(紀村好輝氏)…、JSCの仲間達も各地のマニアに声をかけて、全国を制覇。会員も500名を超える組織に成長する。
話は戻るが、S47年9月、JSC日光ミーティングの帰り、群馬県渋川の高橋貞氏宅に立寄り、小生のZ7を小見氏に預け、側車取付けをお願いし、電車で帰るつもりだったのだが、小見氏は最愛のサイドカーBSA B33ツーリング(ライムグリーン)を差出して、これに乗って帰って下さいとのこと。 私はサイドカー運転は経験ゼロなのに。嬉しいやら怖いやら、複雑な心境だったが、兎に角、事故を起こさないようにとオッカナビックリしながら国道16号を走り、東名高速に上って、豊田まで無事帰投。大切なサイドカーを何のためらいもなく貸して下さった小見氏に深い感謝ど友情を抱くと共に、この人を日本サイドカー組織のドンにすると決心し、前記の通り10数年に渡って私の忠義の旅が始まるわけである。
40余年に渡って兄弟のように慈しんで下さった小見氏に対する想い出は尽きない。私の人生に於いて、サイドカーは最高の趣味であり、日本サイドカー連盟の仲間達は生涯、掛け替えのない友である。 これからも皆で協力し合って、JSCを永久不変の組織として運営していきたいものである。これが、小見会長に対する恩返しと恩っている。

サイドカーレースについてはMCFAJで開催されるようになってほとんど参戦。
太田政良氏製作のニーラーフレームにヨシムラホンダ812エンジン搭載、お立台のテッペンの常連に。
世界GPマシンLCRに興味を持ち渡欧、熊野正人氏率いるKUMANOレーシングとGP参戦。
その後はLCRを日本に持ち込み、国内サイドカーレースのレベルアップをはかった。


本文は平成24(2012)年5月JSC小見初代会長お別れの会後に、JSC会議特別号用(未刊)に書かれたものである。

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